荒谷洋瓦株式会社
荒谷真太郎さんインタビュー
このまちと百年在るために。
残る「作品」を作り続け、
昭和27年以来、安芸津で新築・リフォームなどの屋根工事や、太陽光発電システムの販売・工事を行なっている、荒谷洋瓦株式会社。手掛けた仕事、つまり「作品」という屋根が、何十年も残り続けることについてを中心に、作り、活かすといった取り組みについて、3代目代表取締役の荒谷真太郎さんにお話を伺った。
1952年、瓦の製造から始まった荒谷洋瓦株式会社。現在は、太陽光発電システムを含めた屋根工事全般を担っている。
たとえば、屋根に合わせて用意した瓦を現場まで配送したり、リフトを使用して屋根に瓦を上げたり、下地の上に釘・ボルトなどで瓦を固定するなど、仕事内容はひとつひとつ職人技が必要となるものばかりだ。ただ瓦を美しく並べるだけでは雨漏りしてしまうため、現場によって瓦の並べ方を変更するなど、臨機応変な対応力も持ち合わせているという。
他にも、荒谷洋瓦では積極的に新しい技術を取り入れている。屋根の点検には、ドローンを飛ばし、屋根の劣化部分を撮影しているという。屋根に登ることが困難な建物でも、すぐに点検ができる。また、高所からの落下事故防止にもなっている。それにより、どのような屋根でも工事ができるという、素早い対応力が荒谷洋瓦の強みである。
「一度リフォームなどで屋根の改修とかさせていただくと、建物が残る限りその屋根も、大体40年、50年は残りますよね。だから、この仕事は“残る”仕事なんですよ。自分の作品が、自分が高齢者になるまで残っていく」
この仕事のやりがいについて話す荒谷さん。ひとつひとつの仕事を「作品」と言い表すところに、仕事への愛が感じられた。「作品」は、きっと技術だけでは完成しない。逆に、やる気だけでも完成しないだろう。双方が上手く噛み合った時にはじめて、「作品」となるはずだ。そのための努力を厭わない姿勢が自ずと求められるに違いない。荒谷洋瓦の技能士さんは、皆、瓦屋根工事の技能試験を受験し、技能士の資格取得をしてもらっているという。この資格は、実務経験が2年以上、かつ屋根を短時間で仕上げる実務試験もあり、取得が非常に難しい試験である。
だからこそ、その努力が身を結ぶために必要な時間の経過を見守るかのように自らが手掛けた屋根が残り続けることは、努力や自己存在の証明にもなりうるに違いない。その「作品」の下では、誰かの生活がある。喜んだり、悲しんだり、時には誰かを羨んだり、妬んだり、それでも愛したりしながら暮らしを続けていく。屋根を作るということは、即ち誰かの暮らしを守り続けるということだ。その膨大な時間が含蓄された仕事に、ひたすらに圧巻される。
荒谷洋瓦は、現在荒谷さんで3代目。創業72年になる。
「社長のバトンをもらって、70年以上続けるってことは、すごいことなんだってひしひしと感じていますね。息子にも継いでもらいたいですし。あと30年会社を続ければ、100年になりますから、100年目まで続けて、老舗になることが今の目標です」
「やっぱり勿体無いんで、空き家を有効活用したい。その中でも、僕らのような専門業者じゃないとできないことって、やっぱり色々あると思うんですよね。そういった時に僕らがまちと繋がりを持って、必要な時に手を掛ける。それが引いては、このまちの明かりを消さないことに繋がるんじゃないかな」
そう語る荒谷さんは、古民家鑑定士の資格を取得している。まちに人がいなければ、まちは廃れてしまう。それを危惧した荒谷さんは、暮らしを守る側面から、より具体的な態度でまちに携わっている。
実は荒谷さんへのインタビューは、荒谷洋瓦の歴史が全て記録されているアルバムから始まっていた。
まだ瓦を焼いていた時代の、荒谷洋瓦工場の写真。先代の時代の集合写真。中には荒谷さんとお祖父様との写真もあり、記録写真というよりは、愛おしいものを残す家族写真のようなアルバムであった。家族と、生活と共に、会社が歩んできたことが垣間見える。
「これは、うちの焼いた瓦で初めて施工したものですね。それを祖父が記念で撮影して、残してある。こうしてみると写真って残しとくべきだなって思いますね。」
ふと、独り言のようにこぼされた言葉だ。特筆すべき言葉ではないかもしれないが、“残る”仕事を100年続けたいと話された荒谷さんから出たこの言葉は、やはり特別な言葉ではないだろうか。アルバムをゆっくりとめくる手、写真に向ける細めた目。昔はよかった、と過去に思いを馳せることは簡単だが、その「よかった昔」をただの過去の出来事に留めておかないために、どうにかしようと動くことは、きっと単純な仕事ではない。その眼差しに、不透明な未来を信じようとする荒谷さんの決意を感じた。